それから二年たちました。
牛が葉をたべてしまった椿にも、花が三つ四つ咲いたじぶんの或る日、海蔵さんは半田の町に住んでいる地主の家へやっていきました。
海蔵さんは、もう二タ月ほどまえから、たびたびこの家へ来たのでした。井戸を掘るお金はだいたいできたのですが、いざとなって地主が、そこに井戸を掘ることをしょうちしてくれないので、何度も頼みに来たのでした。その地主というのは、牛を椿につないだ利助さんを、さんざん叱ったあの老人だったのです。
海蔵さんが門をはいったとき、家の中から、ひえっというひどいしゃっくりの音がきこえて来ました。
たずねて見ると、一昨日から地主の老人は、しゃっくりがとまらないので、すっかり体がよわって、床についているということでした。それで、海蔵さんはお見舞いに枕もとまできました。
老人は、ふとんを波うたせて、しゃっくりをしていました。そして、海蔵さんの顔を見ると、
「いや、何度お前が頼みにきても、わしは井戸を掘らせん。しゃっくりがもうあと一日つづくと、わしが死ぬそうだが、死んでもそいつは許さぬ。」
と、がんこにいいました。
海蔵さんは、こんな死にかかった人と争ってもしかたがないと思って、しゃっくりにきくおまじないは、茶わんに箸を一本のせておいて、ひといきに水をのんでしまうことだと教えてやりました。
門を出ようとすると、老人の息子さんが、海蔵さんのあとを追ってきて、
「うちの親父は、がんこでしようがないのですよ。そのうち、私の代になりますから、そしたら私があなたの井戸を掘ることを承知してあげましょう。」
といいました。
海蔵さんは喜びました。あの様子では、もうあの老人は、あと二、三日で死ぬに違いない。そうすれば、あの息子があとをついで、井戸を掘らせてくれる、これはうまいと思いました。
その夜、夕飯のとき、海蔵さんは年とったお母さんに、こう話しました。
「あのがんこ者の親父が死ねば、息子が井戸を掘らせてくれるそうだがのオ。だが、ありゃ、もう二、三日で死ぬからええて。」
すると、お母さんはいいました。
「お前は、じぶんの仕事のことばかり考えていて、悪い心になっただな。人の死ぬのを待ちのぞんでいるのは悪いことだぞや。」
海蔵さんは、とむねをつかれたような気がしました。お母さんのいうとおりだったのです。
次の朝早く、海蔵さんは、また地主の家へ出かけていきました。門をはいると、昨日より力のない、ひきつるようなしゃっくりの声が聞こえて来ました。だいぶ地主の体が弱ったことがわかりました。
「あんたは、また来ましたね。親父はまだ生きていますよ。」
と、出て来た息子さんがいいました。
「いえ、わしは、親父さんが生きておいでのうちに、ぜひおあいしたいので。」
と、海蔵さんはいいました。
老人はやつれて寝ていました。海蔵さんは枕もとに両手をついて、
「わしは、あやまりに参りました。昨日、わしはここから帰るとき、息子さんから、あなたが死ねば息子さんが井戸を許してくれるときいて、悪い心になりました。もうじき、あなたが死ぬからいいなどと、恐ろしいことを平気で思っていました。つまり、わしはじぶんの井戸のことばかり考えて、あなたの死ぬことを待ちねがうというような、鬼にもひとしい心になりました。そこで、わしは、あやまりに参りました。井戸のことは、もうお願いしません。またどこか、ほかの場所をさがすとします。ですから、あなたはどうぞ、死なないで下さい。」
と、いいました。
老人は黙ってきいていました。それから長いあいだ黙って海蔵さんの顔を見上げていました。
「お前さんは、感心なおひとじゃ。」
と、老人はやっと口を切っていいました。
「お前さんは、心のええおひとじゃ、わしは長い生涯じぶんの慾ばかりで、ひとのことなどちっとも思わずに生きて来たが、いまはじめてお前さんのりっぱな心にうごかされた。お前さんのような人は、いまどき珍しい。それじゃ、あそこへ井戸を掘らしてあげよう。どんな井戸でも掘りなさい。もし掘って水が出なかったら、どこにでもお前さんの好きなところに掘らしてあげよう。あのへんは、みな、わしの土地だから。うん、そうして、井戸を掘る費用がたりなかったら、いくらでもわしが出してあげよう。わしは明日にも死ぬかも知れんから、このことを遺言しておいてあげよう。」
海蔵さんは、思いがけない言葉をきいて、返事のしようもありませんでした。だが、死ぬまえに、この一人の慾ばりの老人が、よい心になったのは、海蔵さんにもうれしいことでありました。