← Library‹ こころ 下 先生と遺書 二十五

「私わたくしは蔭かげへ廻まわって、奥おくさんとお嬢じょうさんに、なるべくKと話はなしをするように頼たのみました。私わたくしは彼かれのこれまで通かよって来きた無言むごん生活せいかつが彼かれに祟たたっているのだろうと信しんじたからです。使つかわない鉄てつが腐くさるように、彼かれの心こころには錆さびが出でていたとしか、私わたくしには思おもわれなかったのです。

奥おくさんは取とり付つき把はのない人ひとだといって笑わらっていました。お嬢じょうさんはまたわざわざその例れいを挙あげて私わたくしに説明せつめいして聞きかせるのです。火鉢ひばちに火ひがあるかと尋たずねると、Kはないと答こたえるそうです。では持もって来きようというと、要いらないと断ことわるそうです。寒さむくはないかと聞きくと、寒さむいけれども要いらないんだといったぎり応対おうたいをしないのだそうです。私わたくしはただ苦笑くしょうしている訳わけにもゆきません。気きの毒どくだから、何なんとかいってその場ばを取とり繕つくろっておかなければ済すまなくなります。もっともそれは春はるの事ことですから、強しいて火ひにあたる必要ひつようもなかったのですが、これでは取とり付つき把わがないといわれるのも無理むりはないと思おもいました。

それで私わたくしはなるべく、自分じぶんが中心ちゅうしんになって、女おんな二人ふたりとKとの連絡れんらくをはかるように力つとめました。Kと私わたくしが話はなしている所ところへ家うちの人ひとを呼よぶとか、または家いえの人ひとと私わたくしが一ひとつ室へやに落おち合あった所ところへ、Kを引ひっ張ぱり出だすとか、どっちでもその場合ばあいに応おうじた方法ほうほうをとって、彼かれらを接近せっきんさせようとしたのです。もちろんKはそれをあまり好このみませんでした。ある時ときはふいと起たって室むろの外そとへ出でました。またある時ときはいくら呼よんでもなかなか出でて来きませんでした。Kはあんな無駄話むだばなしをしてどこが面白おもしろいというのです。私わたくしはただ笑わらっていました。しかし心こころの中うちでは、Kがそのために私わたくしを軽蔑けいべつしていることがよく解わかりました。

私わたくしはある意味いみから見みて実際じっさい彼かれの軽蔑けいべつに価あたいしていたかも知しれません。彼かれの眼めの着つけ所しょは私わたくしより遥はるかに高たかいところにあったともいわれるでしょう。私わたくしもそれを否いなみはしません。しかし眼めだけ高たかくって、外ほかが釣つり合あわないのは手てもなく不具かたわです。私わたくしは何なんを措おいても、この際さい彼かれを人間にんげんらしくするのが専一せんいつだと考かんがえたのです。いくら彼かれの頭あたまが偉えらい人ひとの影像イメジで埋うずまっていても、彼かれ自身じしんが偉えらくなってゆかない以上いじょうは、何なんの役やくにも立たたないという事ことを発見はっけんしたのです。私わたくしは彼かれを人間にんげんらしくする第だい一いちの手段しゅだんとして、まず異性いせいの傍そばに彼かれを坐すわらせる方法ほうほうを講こうじたのです。そうしてそこから出でる空気くうきに彼かれを曝さらした上うえ、錆さび付つきかかった彼かれの血液けつえきを新あたらしくしようと試こころみたのです。

この試こころみは次第しだいに成功せいこうしました。初はじめのうち融合ゆうごうしにくいように見みえたものが、段々だんだん一ひとつに纏まとまって来出きだしました。彼かれは自分じぶん以外いがいに世界せかいのある事ことを少すこしずつ悟さとってゆくようでした。彼かれはある日ひ私わたくしに向むかって、女おんなはそう軽蔑けいべつすべきものでないというような事ことをいいました。Kははじめ女おんなからも、私わたくし同様どうようの知識ちしきと学問がくもんを要求ようきゅうしていたらしいのです。そうしてそれが見付みつからないと、すぐ軽蔑けいべつの念ねんを生しょうじたものと思おもわれます。今いままでの彼かれは、性せいによって立場たちばを変かえる事ことを知しらずに、同おなじ視線しせんですべての男女なんにょを一様いちように観察かんさつしていたのです。私わたくしは彼かれに、もし我われら二人ふたりだけが男おとこ同志どうしで永久えいきゅうに話はなしを交換こうかんしているならば、二人ふたりはただ直線ちょくせん的てきに先さきへ延のびて行いくに過すぎないだろうといいました。彼かれはもっともだと答こたえました。私わたくしはその時ときお嬢じょうさんの事ことで、多少たしょう夢中むちゅうになっている頃ころでしたから、自然しぜんそんな言葉ことばも使つかうようになったのでしょう。しかし裏面りめんの消息しょうそくは彼かれには一口ひとくちも打うち明あけませんでした。

今いままで書物しょもつで城壁じょうへきをきずいてその中なかに立たて籠こもっていたようなKの心こころが、段々だんだん打うち解とけて来くるのを見みているのは、私わたくしに取とって何なんよりも愉快ゆかいでした。私わたくしは最初さいしょからそうした目的もくてきで事ことをやり出だしたのですから、自分じぶんの成功せいこうに伴ともなう喜悦きえつを感かんぜずにはいられなかったのです。私わたくしは本人ほんにんにいわない代かわりに、奥おくさんとお嬢じょうさんに自分じぶんの思おもった通とおりを話はなしました。二人ふたりも満足まんぞくの様子ようすでした。

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